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東京地方裁判所 平成9年(ワ)3099号 判決 1999年11月30日

第一事件原告(第二事件被告)

甲野一郎

右訴訟代理人弁護士

髙谷圭一

第一事件被告(第二事件原告)

北辰商品株式会社

右代表者代表取締役

長畠敏彦

右訴訟代理人弁護士

伊東眞

根木純子

主文

一  第一事件原告(第二事件被告)は、第一事件被告(第二事件原告)に対し、金五一四万七〇三八円及びこれに対する平成一〇年一月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  第一事件被告(第二事件原告)のその余の請求を棄却する。

三  第一事件原告(第二事件被告)の請求を棄却する。

四  訴訟費用は第一事件、第二事件を通じて四分し、その一を第一事件被告(第二事件原告)の負担とし、その余を第一事件原告(第二事件被告)の負担とする。

五  この判決は仮に執行することができる。

事実及び理由

第一請求

一  第一事件

1  第一事件被告(第二事件原告。以下「被告」という。)は、第一事件原告(第二事件被告。以下「原告」という。)に対し、金二九万五〇〇〇円を支払え。

2  被告は、原告に対し、金一三八〇万円及びこれに対する平成一〇年一〇月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え(ママ)

二  第二事件

原告は、被告に対し、金七七八万四三〇一円及びこれに対する平成一〇年一月三〇日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一  第一事件は、被告を退職した原告が、平成七年度第三四半期奨励手当として金二八万円及び平成八年一〇月分の新規賞として金一万五〇〇〇円が未払であり、また、被告は原告が扱った顧客の中にいわゆる仮名又は借名名義を使用した者がいてその者に発生した多額の差損金(未収金ともいう。原告も被告も未収金といい又差損金ともいい、必ずしも用語の統一がされていない。当事者の使い分けにのっとり、後掲の争点1においては原則として未収金ということとし、後掲の争点3及び4においては原則として差損金ということとする。)が回収できないために被告は多額の損害を被ったとして原告に対し執拗に差損金の回収を要求したため、原告は心身共に苦しめられてこれに耐えられなかった上、被告から差別的な扱いをされたために被告を退職するに至ったが、原告は右の被告の違法な行為によって退職を余儀なくされたというべきであり、被告が執拗に差損金の回収を要求し差別的な扱いをしなければ原告は退職時から少なくとも一〇年間は勤務できたはずであると主張して、被告に対し、前記奨励手当と新規賞の合計の金二九万五〇〇〇円の支払を求めるとともに、不法行為に基づく損害賠償請求権に基づき、前記の被告の違法な行為によって被った損害として被告で一〇年間勤務していれば得られたであろう収入の三分の一に相当する金一〇八〇万円と慰謝料金三〇〇万円の合計金一三八〇万円及びこれに対する不法行為の日の後であることが明らかな平成一〇年一〇月三〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

第二事件は、被告が、原告が扱った顧客の中にいわゆる仮名又は借名名義を使用した者がいてその者に発生した多額の差損金が回収できないために被告は多額の損害を被ったとして、原告に対し、不法行為又は債務不履行に基づく損害賠償請求権に基づき、差損金の残額として金七七八万四三〇一円及びこれに対する不法行為の日の後であることが明らかな平成一〇年一月三〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。

二  前提となる事実

1  被告は商品取引法に基づく先物取引及びこれに付随する一切の業務を業とする株式会社である(争いがない。)。

2  原告は昭和五九年四月一日被告に雇用され、営業課に所属して商品取引所法九一条の二第一項に規定する外務員(以下「外務員」という。)として被告のために商品市場における取引の受託又は委託の勧誘を行っていたが、平成八年一〇月二九日被告に退職届を提出し、同月三一日をもって被告を退職した(争いがない。)。

3  被告は平成八年一月二五日付けの「平成7年度第三四半期奨励手当一部支払留保の件」と題する書面(<証拠略>。以下「本件書面」という。)を原告に交付した。本件書面には次のような記載がある。

「標記につき該当期間内に発生した完全未収金の回収目途が立つ迄下記金額の支払いを留保します。目途がついた時点で、朔って支給しますので、回収に最善を尽くされたい。

留保する金額 ¥280,000(支給予定額の50%相当)

(該当期間中発生完全未収金額¥10,421,564)」

被告は、現在に至るまで平成七年度第三四半期奨励手当(以下「本件奨励手当」という。)の留保分である金二八万円を原告に支払っていない(本件書面の内容については<証拠略>。その余は争いがない。)。

4  被告では顧客からの建て玉一〇枚について新規賞として一口金一万五〇〇〇円が一か月単位で翌月に支払われることになっていた。原告は平成八年一〇月一五日付けで「伊藤ひろみ」名義の口座で一〇枚の新規建て玉(以下「本件新規建て玉」という。)を受託したが、被告は同年一〇月分として本件新規建て玉についての新規賞(以下「本件新規賞」という。)として金一万五〇〇〇円を原告に支払っていない(争いがない。)。

5  被告の就業規則(以下「本件就業規則」という。)には、次の定めがある(<証拠略>)。

第五条

社員はこの規則、その他会社の規定、告示、通達並びに誓約書などを誠実に遵守するほか、業務に関する会社の指示命令に服して、職場の秩序を保持し、相協力して、その職責を遂行しなければならない。

5(ママ) 被告には本件就業規則の外に営業社員についての補足(以下「本件補足規定」という。)があり、それには次のような定めがある(<証拠略>)。

(一) 第三条

(1) 社員は委託の勧誘及び受託業務に従業するときは商品取引所法、各取引所の受託契約準則、会社の就業規則及びその他遵守すべさ(ママ)関係諸規則に違反する行為又は信義に反則する不当行為によって会社及び委託者に対し損害を与えないこと(一項)。

(2) 二項以下省略

(二) 第四条

社員として会社より委託証拠金、損益金の受払等を託された場合はその託された任務を確実に行ない、会社及び委託者に対して損害を与えてはならないこと。

(三) 第五条

委託者の口座に完全未収金(担保のない未収金)が生じないよう委託者に対し商品取引所の定める委託証拠金又は、仕切り損金及び委託手数料等の請求を怠らないこと。

(四) 第八条

社員が会社及び委託者に対して弁済すべき債務があるとき、あるいは故意又は重大なる過失によって担当の委託者口座に完全未収金を出した場合は身元保証人と連帯して速やかに(一ヶ月以内)弁済を完了すること。

6(ママ) 被告は訴状により原告に対し不法行為に基づく損害賠償請求権に基づき原告が担当していた顧客について発生した差損金の残額として金七七八万四三〇一円及びこれに対する訴状送達の日の翌日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、この訴状は平成一〇年一月二九日に原告に送達された。被告は同年五月二九日第三回弁論準備手続期日において同年四月一七日付け準備書面を陳述したが、その準備書面には原告が被告に対し不法行為責任のみならず雇用契約及び本件補足規定違反による債務不履行責任を負うことは明らかであるとして、債務不履行責任に関する請求原因を追加することが記載されていた(当裁判所に顕著である。)。

三  争点

1  本件奨励手当の留保分及び本件新規賞の支払義務の有無について

(一) 原告の主張

(1) 本件奨励手当の留保分について

ア 四半期奨励手当は営業成績が優秀な外務員に四半期ごとに支払われるべき手当であるところ、被告は原告に支払われるべき本件奨励手当の一部である金二八万円の支払を留保したままでこれを原告に支払わない。

イ そもそも本件書面にいう完全未収金の回収は被告の管理部の仕事であって外務員の仕事ではないから、完全未収金の回収を条件に四半期奨励手当の支払を留保することはできない。

被告の主張に係る四半期奨励手当の配分方法(後記第二の三1(二)(1)ア(イ))は恣意的にして公序良俗に反する評価方法である。なぜなら、もともと被告には手数料で収益を得ようとする考えに乏しく、顧客が被告に預ける委託証拠金で収益を上げようとしており、そのため委託証拠金をできるだけ多く顧客から集めようとして仕切り(清算)を遅らせて多くの追証拠金を生じさせることがあるのであって、そのような場合にその結果として発生した未収金を外務員が顧客から集めた委託証拠金の金額から差し引いて奨励手当は(ママ)支給するとすることは、いわば被告が多くの追証拠金を得ようとして仕切りを遅らせたことによるリスクを外務員に転嫁するようなものであり、奨励手当の支給に当たって未収金を差し引くとすることは奨励手当の支給に恣意的で公序良俗に反する基準ないし条件を設定したことになるというべきであるからである。

そして、被告の主張に係る未収金(後記第二の三1(二)(1)イ)は、被告が未収金の債務者である顧客の全建て玉を強制手仕舞したことにより発生したものであるが、被告が追証拠金の獲得を目的に強制手仕舞する時期を遅らせていたため、未収金の額が増大したとすれば、そのような経過で発生した未収金の回収などを条件に本件奨励手当の一部の支払を留保するのは強制手仕舞を遅らせたことによるリスクを原告に転嫁するものであって到底許されることではない。

被告は業界でも有名なノミ屋であり、客殺しの向かい玉を建てることもあるのであって、強制手仕舞が遅れたのもそのためである。

(2) 本件新規賞について

ア 被告は本件新規賞として金一万五〇〇〇円を原告に支払わない。

イ 新規賞は顧客を確保して新規の契約を開拓した場合に支払われるものであり、新親の契約がねつ造新規(後記第二の三1(二)(2)ア)であることが発覚したというだけでは、新規賞の支払を拒否する理由として十分であるとはいえない。

(二) 被告の主張

(1) 本件奨励手当の留保分について

ア(ア) 四半期奨励手当は、被告の就業規則にその支給の根拠規定があるわけではなく、被告が各年度の四半期ごとに営業部の所属する各営業課の営業成績を基に各営業課ごとに支給される手当であり、外務員個人に支給される金員ではない。その配分方法は営業課長に委ねられており、支給を受けた営業課では営業課長が課員ごとの成績を基に課の成績を上げるために最適な配分方法により各課員にこれを配分して支給することになっている。このように四半期奨励手当は課員の営業成績に応じて当然に支払われるものではなく、被告がその裁量により支給の有無及びその金額を決定し得る性質のものであるから、その支給額の決定に当たり条件を付し得るものである。

(イ) 被告は営業成績が優秀であってもその営業により多額の回収不能の未収金を発生させて被告に損害を与えた外務員に対しては四半期奨励手当を配分しないのが通例であった。

イ 原告はその営業活動によって金一〇四二万一五六四円という多額の未収金を発生させて被告に損害を与え、しかもこの未収金は原告が未収金の債務者である顧客との共謀により発生させたと思われる事実があった。本来であれば、原告に支払われる四半期奨励手当は皆無であるところ、被告は原告に対しその責任においてこの未収金を回収させることにし、原告の所属する営業課において原告に対する配分を内定した金五六万円のうち半額を四半期奨励手当として原告に支払い、その余の金二八万円はこの未収金の回収又は回収を確実にする担保の取得などを実現することを停止条件として支払うことにしたのである。ところが、未収金のうち金二六三万七二六三円については被告において回収したが、残金七七八万四三〇一円は回収されておらず、回収の見込みも立っておらず、原告はこの回収について何らの努力も払っていないのであって、原告に四半期奨励手当を支払う条件はいまだ成就していない。

(2) 本件新規賞について

ア 被告においては平成四年四月以降「仮名口座、空き口座、及び他人名義を使用した受託」(以下「ねつ造新規」という。)を禁止行為と定め、社内通達や社内研修などを通じて営業員のみならず全社員に対しねつ造新規の禁止を繰り返し厳しく周知徹底させてきた。ねつ造新現は商品取引法違反ではないが、同法違反や就業規則違反を潜脱回避する目的で行われることが多く、これを放置すると、真実の顧客いかん及び損益帰属の実態が不明確になり、営業員による益金の横領を許したり、被告による損失回収を妨げるなど取引の公正を害し、被告に損害を与えるなど種々の弊害を生むため、被告ではこれを厳禁しているのである。したがって、万一ねつ造新規が発覚した場合は当然のことながら新規賞は没収される。

イ 原告が受託した本件新規建て玉については本来ならば平成八年一〇月末日締切りで同年一一月二五日には原告に対し新規賞として金一万五〇〇〇円が支給されるはずであった。

ところが、原告が受託した本件新規建て玉は仮名借名口座による受託であることが判明したので、被告は本件新規賞を支給することを取りやめたのである。

2  相殺の成否について

(一) 被告の主張

仮に被告には本件奨励手当の支払義務があるとすれば、被告は原告に対し不法行為に基づく損害賠償請求権(後記第二の三4(一))を自働債権として本件奨励手当金債権を対当額で相殺する。

労働基準法二四条は賃金の直接払いの原則を定め、使用者が労働者に対して有する債権と賃金債権を相殺することは原則として許されないが、労働者に使用者に対する明白かつ重大な不法行為があって、労働者の経済生活の保護の必要性を最大限考慮しても相殺を許さないことが社会通念上著しく不当であると認められる特段の事情があれば、賃金との相殺も許されると解されているところ、原告の不法行為(後記第二の三4(一))は商品先物取引制度を悪用した極めて悪質な故意による明白かつ重大な不法行為であって、原告の経済生活の保護の必要性を最大限考慮しても相殺を許さないことが社会通念上著しく不当であると認められる特段の事情が存在する。

(二) 原告の主張

否認ないし争う。

3  原告の主張に係る損害賠償の成否について

(一) 原告の主張

(1) 被告は、原告の扱った顧客の中にいわゆる仮名又は借名名義を使用した者があり、その結果その顧客に多額の差損金が発生し、これの回収ができないため被告に多額の損害を与えたが、この損害は原告が与えたものであるとして、すなわち、その顧客のいわゆる仮名又は借名を使用した取引基本契約を成立させたとして、これを口実に執拗にまた差損金の回収を要求し、原告はそのために心身ともに苦しめられ、原告はこれに耐えられず、被告を退職するに至った。

(2) 被告では借名名義での取引及びこれに準ずる取引が常態化しており、中には手張りをしていた者もいた。被告は商品取引員として営業を行っていたが、その営業の実態は集団的「ノミ屋」的商売ともいうべきもので、少なくとも原告にはそのように感じられたのであって、被告は顧客に対し委託証拠金の返還を妨げ、異常に高額な差損金を発生させていたが、これは被告の作為であったと原告は考えている。結局のところ、原告は、被告に対し、通常の取引であれば手数料が被告の利益であるはずなのに、被告では保有金(顧客からの預り金)を外務員の奨励金として配分したり、顧客に追い証拠金がかかり損害が発生しているのにこれを必要以上に放置して損害を拡大されたりするなどの点に疑問を抱いていた。被告はこのような原告を他の社員と差別して扱い、原告はかかる被告の態度に耐え難く、退職するに至ったのである。

(3) 被告による嫌がらせ及び差別的扱いがなければ、原告は退職時から少なくとも一〇年間は勤務できたのであり、被告による嫌がらせと差別的扱いによってその間の収入

270,000円×120か月=32,400,000円

三二四〇万円を失ったのである。

また、被告による嫌がらせ及び差別的扱いによって被った精神的苦痛を慰謝するには金三〇〇万円が相当である。

(4) そこで、原告は被告に対し右の得べかりし収入の三分の一に相当する金一〇八〇万円及び慰謝料金三〇〇万円、合計金一三八〇万円及びこれに対する不法行為の日の後であることが明らかな平成一〇年一〇月三〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(二) 被告の主張

原告は後記第二の三4(一)(1)及び(2)のとおり松本麻希及び田中勝の仮名口座による取引の一件について被告から懲戒処分を受ける危険性が切迫したことを察知して先回りして被告を退職したにすぎないのであって、被告が原告に対し原告の主張に係る違法な行為をしたことはない。

4  被告の主張に係る損害賠償の成否について

(一) 被告の主張

(1) 松本麻希の仮名口座による取引に関する共同不法行為責任について

ア 原告は乙原二郎(以下「乙原」という。)及び丙山花子(以下「丙山」という。)と共謀し、丙山をして乙原の指示により松本麻希の仮名口座をもって被告に対し商品先物取引を委託し買い付けを行わしめ、これにより利益が得られた場合は三名全員でこれを取得し、加えて原告は新規賞を取得し、また損失を被った場合には仮名口座であり真実の委託者名が秘匿されていることを奇貨として被告に対する差損金の支払を免れようと計画して平成七年一月一〇日東京都北区神谷<以下略>所在の丙山の自宅付近の喫茶店に集まり、共同して被告に対し商品取引委託を証する書面である約諾書及び通知書を仮名である松本麻希名義を使用して偽造した。このとき約諾書及び通知書の用紙を持参したのは原告であり、乙原及び原告の指示に従い、約諾書及び通知書に松本麻希の記名をし、松本の三文判を押捺したのは丙山であった。右の三名のうち丙山だけが商品取引に関しては未経験であったが、原告も乙原も丙山も松本麻希名義の口座による取引によって差損金が生じた場合には、自らが差損金債務を免れる結果、被告が差損金相当額の損害を被ることを十分承知していた。原告は右同日の前後ころ松本麻希名義の顧客カード及び本人確認書を作成した。

イ 原告らは松本麻希名義により被告に委託して平成七年一月一一日から同年二月一七日までの間に別紙2「松本麻希口座(東京穀物商品取引所)」<略>記載のとおり東京穀物商品取引所において粗糖の買い付けを行ったが、右の取引後に原告らの建て玉について追証拠金の預託が必要となったが、原告らがこれを預託しなかったため、被告は同年一〇月二日右の原告らの建て玉を強制手仕舞した。その結果、原告らは被告に対し売買差損金(手数料、消費税及び取引税を含む。)として金五二七万四五二六円の支払義務を負うに至った。

ウ 原告は、当初から松本麻希は知人から紹介された顧客であり、仮名口座ではないと主張し、また同人を紹介した知人の氏名を明らかにすることを固く拒み続け、松本麻希名義の講座につき被告から追証拠金請求を指示された際も、また前記強制手仕舞後に差損金取立てを指示された際にもこの態度を変えようとはしなかった。そこで、被害は約諾書及び通知書記載の住所を手掛かりに調査を行った結果、同年一一月七日松本麻希が丙山であることを突き止めた。被告はこの調査結果を基に原告を問いただしたところ、原告は当初松本麻希は関元摩耶(ママ)であるなどと偽りの主張をしていたが、同年一一月七日に被告の調査員が丙山と面談したことを知ってようやく丙山が松本であるらしいことを認め、報告書を提出したが、この報告書には、松本麻希名義の取引口座については「多分」丙山花子であり、病院に入院して面接したのは丙山花子でありますとし、その理由について「病院の名札がそうだった」などと記載され、この期に及んでなお、原告が松本麻希こと丙山であると最初から知っていたことを隠し通そうとしていた。また、原告は丙山の紹介者が乙原であることをも最後まで隠し通したし、強制手仕舞した後、被告から差損金の取立ての指示を受けた後も「訪問せず(できず)」「連絡つかず」という報告書を被告に提出しただけで一向に取立てを行おうともせず、登録外務員としての差損金回収義務を事実上うやむやにして免れようとした。松本麻希の連絡先電話番号についても、原告は同人と携帯電話で連絡を取っていたが、その電話番号も忘れてしまったという報告をし、あくまでも乙原、丙山との共謀の事実を秘匿し、前記回収義務を免れようとしていた。

エ 被告は丙山に対する債務名義を取得した後である平成九年五月二日下飯坂法律事務所において丙山と面談し、原告、乙原及び丙山による松本麻希の仮名口座による取引に関する事実の全ぼうが明らかとなり、丙山は報告書を作成してこれを被告に提出した。被告は同月二八日丙山との間で和解契約を締結し、丙山は松本麻希名義を利用した取引によって生じた差損金の二分の一に相当する金二六三万七二六三円を被告に支払い、これにより差損金の残金は金二六三万七二六三円となった。

オ 原告は、乙原及び丙山と共謀の上、前記アの故意をもって、

(ア) 被告において登録外務員の禁止行為とされていることを知りながら松本麻希なる仮名口座を使用して被告に商品取引の取次ぎを委託し、同人名義で買い付けを行い、その結果必要となった追証拠金を預託せず、前記強制手仕舞の結果、原告らは被告に対し金五二七万四五二六円の差損金支払義務を負担し、

(イ) 被告の差損金回収義務などの必要上、当然に自己の担当に係る顧客の真実の氏名、住所などを告知すべき義務を被告に対し負っているにもかかわらず、これに違反し、しかも「職務遂行にあたり業務に関する会社の指示命令に服する義務」を定めた本件就業規則五条に違反し、被告が再三にわたり松本麻希名義の口座を利用している顧客の真実の氏名、住所を明らかにするよう求めた指示命令にも違反して、松本麻希が丙山であること及びその真実の住所及び電話番号その他一切の事情を被告に秘匿し続け、

(ア)及び(イ)の各違法行為の結果、被告が真実の顧客である丙山から前記差損金回収を行うことを妨げ、もって被告に対し右差損金と同額の金五二七万四五二六円の損害を与えた。

原告、乙原及び丙山の被告に対する共同不法行為に基づく損害賠償債務は不真正連帯債務であるから、原告は被告に対し金五二七万四五二六円の二分の一に相当する金二六三万七二六三円について損害賠償義務を負っている。

(2) 田中勝の仮名口座による取引に関する共同不法行為責任について

ア 原告は平成六年一一月ころ乙原と共謀し、田中勝の仮名口座をもって被告に対し商品先物取引を委託し買い付けを行わしめ、これにより利益が得られた場合は二人でこれを取得し、加えて原告は新規賞を取得し、また損失を被った場合には仮名口座であり真実の委託者が秘匿されていることを奇貨として被告に対する差損金の支払を免れようと計画し、平成六年一一月一一日共同して被告に対し商品取引委託を証する書面である約諾書及び通知書を仮名である田中勝名義を使用して偽造した。原告は右同日の前後ころ田中勝名義の顧客カード及び本人確認書を作成した。乙原にはほとんど資力がなく、原告はそのことを承知していた。

イ 原告らは田中勝名義により被告に委託して平成六年一一月一一日から同年一二月二七日までの間に別紙1「田中勝口座(東京穀物商品取引所)」<略>記載のとおり東京穀物商品取引所において粗糖の買い付けを行ったが、右の取引後に原告らの建て玉について追証拠金の預託が必要となったが、原告らがこれを預託しなかったため、被告は同年一〇月二日右の原告らの建て玉を強制手仕舞した。その結果、原告らは被告に対し売買差損金(手数料、消費税及び取引税を含む。)として金五二七万四五二六円の支払義務を負うに至った。

ウ 原告は、田中勝名義の口座による取引は田中勝本人の委託によるものであり、田中勝は乙原ではないと主張し続けている。被告が田中勝の携帯電話の電話番号を明らかにするよう求めたところ、「今手元にはない。机の中のメモ帳にある。」と言うので、再度被告がメモ帳の提示を求めたところ、原告は二、三日後に「今なくした。」と答えてついにこれを明らかにしなかった。被告の佐久間営業本部長が平成七年一〇月二六日ころ原告から事情を聴取したが、原告は「たとえ首になっても言えないものは言えない。」と答えていた。

エ 被告は田中勝名義の約諾書及び通知書の外、顧客カードの住所、電話番号を手掛かりに調査を行った結果、住所も電話番号も他人のものを勝手に記載していたことが判明し、被告代理人による調査でも田中勝の住所の記載が全くでたらめであったことが裏付けられた。その結果、被告は田中勝名義の取引により発生した差損金全額について回収不能に陥った。

オ 原告は、乙原と共謀の上、前記アの故意をもって、

(ア) 被告において登録外務員の禁止行為とされていることを知りながら田中勝なる仮名口座を使用して被告に商品取引の取次ぎを委託し、同人名義で買い付けを行い、その結果必要となった追証拠金を預託せず、前記強制手仕舞の結果、原告らは被告に対し金五一四万七〇三八円の差損金支払義務を負担し、

(イ) 被告の差損金回収義務などの必要上、当然に自己の担当に係る顧客の真実の氏名、住所などを告知すべき義務を被告に対し負っているにもかかわらず、これに違反し、しかも「職務遂行にあたり業務に関する会社の指示命令に服する義務」を定めた本件就業規則五条に違反し、被告が再三にわたり田中勝名義の口座を利用している顧客の真実の氏名、住所を明らかにするよう求めた指示命令にも違反して、田中勝こと乙原であること及びその真実の住所及び電話番号その他一切の事情を被告に秘匿し続け、

(ア)及び(イ)の各違法行為の結果、被告が真実の顧客である乙原から前記差損金回収を行うことを妨げ、もって被告に対し右差損金と同額の金五一四万七〇三八円の損害を与えた。

原告及び乙原の被告に対する共同不法行為に基づく損害賠償債務は不真正連帯債務であるから、原告は被告に対し金五一四万七〇三八円について損害賠償義務を負っている。

(3) 原告の田中勝の仮名口座を使用した手張り行為に関する不法行為責任について

ア 仮に田中勝が乙原でなかった場合には、田中勝名義の口座による取引は原告の手張り行為であるというほかない。なぜなら、田中勝名義の約諾書及び通知書は顧客と被告との取引委託基本契約を成立させるものであるが、この全文を記載したのは原告本人に間違いない上、原告は日頃から常習的に仮名口座による取引を行っているからである。したがって、原告が田中勝の仮名口座を使用した真実の顧客が別に存在することを証明することができない以上、約諾書及び通知書を記載した原告が田中勝名義の口座を使用して被告との間で取引委託契約を締結したものといわざるを得ない。

イ 原告は単独で前記第二の三4(一)(2)アと同様の故意をもって前記第二の三4(一)(2)オの行為を乙原と共謀せずに単独で行い、もって被告に対し、田中勝名義の口座に金五一四万七〇三八円の差損金債務を生じさせ、自らが真実の顧客であることを秘匿し続け、被告によるこの差損金の回収を不可能にし、右同額の損害を被告に与えたものにほかならない。

よって、原告は被告に対し金五一四万七〇三八円について損害賠償義務を負っている。

(4) 田中勝の仮名口座を使用した取引が原告の手張り行為でなかった場合に関する不法行為責任について

ア 田中勝の仮名口座を使用した取引が原告と乙原の共謀によるものではなく、原告の手張りでさえなかったとしても、原告は故意又は重過失による不法行為に基づく損害賠償責任を免れない。

イ 本件補足規定三条、四条及び五条並びに「およそ商品取引員たる会社と登録外務員との雇用契約の趣旨からして、外務員は自己の担当した顧客に関しては、委託追証拠金預託事由発生の通知、差損金債権の回収等の業務上の必要性にかんがみ、会社に対し、顧客の真実の氏名、住所等を告知すべき義務がある」とした東京地裁昭和五五年一〇月二四日判決(判例タイムズ四三五号一二二ページ)によれば、原告は被告に対し、その担当する顧客について信用状態を調査しておくべき義務を負うことはもちろん、さらにその前提として単なる連絡先電話番号のみならず委託者の住所、勤務先なども確実に把握しておくべき注意義務があるというべきである。

ウ しかし、原告はこれらの規則や判例を熟知しながら悪意又はこれと同視すべき重過失をもって、委託者田中勝の正確な住所、勤務先などの把握を怠ったばかりか、同人との連絡に使用していたと原告自ら申告した携帯電話の番号すらも、それをメモしていたメモ帳をなくしたと主張し、被告に対し田中勝への差損金回収のための手掛かりを一切故意に与えなかったか若しくは重過失により与えることができなかった。そのため被告は田中勝名義の口座を使用した商品取引によって生じた差損金相当額金五一四万七〇三八円の損害を被った。

以上によれば、原告は被告に対し金五一四万七〇三八円について損害賠償義務を負っている。

(5) 過失の不法行為責任について

仮に前記(1)ないし(4)について故意が認められないとしても、原告は被告の外務員として取引開始から未収金(差損金)の回収までの全過程に携わっているのであるから、田中勝及び松本麻希名義の口座について完全未収金の発生の予見が可能であったし、その発生を防止して被告に損害を被らせないようにすべき客観的注意義務ないし結果回避義務があったにもかかわらず、これを怠ったことは疑いないのであるから、過失の不法行為が成立することは明らかである。

(6) 雇用契約及び就業規則違反による債務不履行責任について

ア およそ商品取引員たる会社と外務員のとの間の雇用契約の趣旨からして外務員は自己の担当した顧客に関しては委託追証拠金預託事由の通知、差損金債権の回収などの業務上の必要性にかんがみ、会社に対し、顧客の真実の氏名、住所などを告知すべきであるものというべきである(同旨の判例として東京地裁昭和五五年一〇月二四日判決・判例タイムズ四三五号一二二ページ)から、原告の前記第二の三4(一)(1)ウ及び(2)ウの各行為が被告との間の雇用契約に違反することは明らかである。

イ 本件補足規定八条は、社員が故意又は重大な過失によって担当の委託者口座に完全未収金を出した場合の弁済完了義務を定めているから、原告は前記第二の三4(一)(1)ウ及び(2)ウの各行為について弁済完了義務を負う。

(二) 原告の主張

(1) 前記第二の三4(一)(1)アないしオのうち事実の経過については認め、その余は否認ないし争い、前記第二の三4(一)(2)アないしオのうち事実の経過については認め、その余は否認ないし争い、前記第二の三4(一)(3)は否認ないし争い、前記第二の三4(一)(4)アないしウのうち事実については認め、その余は争い、前記第二の三4(一)(5)及び(6)については争う。

(2) 原告は被告の主張に係る各取引を成立させたが、その取引の成立について何らの落ち度もない。差損金の発生については被告に重大な責任があり、原告の責任は軽微である。なぜなら、差損金の発生を最小限に抑えるためには適切な時期に仕切りをすべきであるが、仕切りをするかどうかの権限を有するのは被告であり、原告にはそのような権限はないからである(ママ)

第三当裁判所の判断

一  争点1(本件奨励手当の留保分及び本件新規賞の支払義務の有無)について

1  (証拠・人証略)によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠(<証拠略>)は採用できず、他にこの認定に反する証拠はない。

(一) 被告がその社員に対して支給している奨励金には、新規に顧客を開拓した営業員に対し毎月支給される歩合給としての奨励金(新規賞と呼ばれている。)、顧客から預かった委託証拠金のチーム(課)ごとの増加分についてチームに対し月ごと又は四半期ごとに支給される奨励金、顧客から預かった委託証拠金のブロック(部)全体の増加分についてブロックに対し月ごと又は四半期ごとに支給される奨励金の三つがある。チームごと又はブロックごとに支給される奨励金はチーム長又はブロック長がそれぞれチーム内又はブロック内における個々の営業員に対する配分を決定する。これらの奨励金は就業規則に規定されているものではなく、就業規則とは別に定める支給基準に基づき支給される。四半期ごとの奨励金は対象となる四半期(三か月間)が経過した翌月の二五日払いとされていた。被告では多額の未収金を抱えていることが判明した外務員にはその回収の見込みいかんによっては奨励金を支給しないこともあった(<証拠・人証略>)。

(二) 本件奨励手当は平成七年度第三四半期に原告が所属するチーム及びブロックに支給された奨励金のうち原告に配分が決定された分であり、第三四半期は一〇月から一二月までの三か月間を対象としていた(<証拠・人証略>)。

(三) 被告は平成四年四月以降いわゆる仮名口座、空き口座及び他人名義を使用した受託をねつ造新規と呼んでこれらを禁止行為と定め、社内通達や社内研修などを通じて営業員のみならず全社員に対しねつ造新規の禁止の周知徹底を図るとともに、その実効性を確保するためにねつ造新規については新規賞を支給しないこととしている。商品の先物取引においては売買代金の一割前後の金額の金員を委託証拠金として支払うことによって取引を開始することができ、商品の先物取引はいわば顧客に信用を供与する取引という側面があることから、取引の顧客が誰であるかを明らかにすることが重要であり、そのため仮名口座や借名口座による取引は厳しく戒められている(<証拠・人証略>)。

(四) 被告の調査によれば、「伊藤ひろみ」名義の口座の開設に当たって伊藤ひろみの兄で被告の元社員である伊藤勝は原告に頼まれて妹に無断で妹の名義を貸したことが判明した(<証拠・人証略>)。

2  本件奨励手当の留保分の支払義務の有無について

(一) 被告がチーム又はブロックに対して支給する奨励金は、顧客から預かった委託証拠金のチームごと又はブロック全体の増加分について支給されるものである(前記第三の一1(一))というのであるから、これらの奨励金はいわば被告の営業員が被告の業績に貢献したことに対して支給されるものであるというべきであり、そうであるとすると、被告がこれらの奨励金の支給に当たってどのように支給条件を定めることも本来自由であり、その支給条件が合理性を欠くものではない限りは、営業員はその支給条件に拘束されるものというべきである。そして、営業員の担当に係る顧客の買い付けた建て玉について未収金が発生した場合にその回収を条件として奨励金の支給を留保することは許されるものというべきである。

(二) 本件においては、

(1) 原告が被告の外務員として担当していた田中勝名義の口座について平成七年一〇月二日に金五一四万七〇三八円の未収金(差損金)が生じたこと、同じく原告が被告の外務員として担当していた松本麻希名義の口座について平成七年一〇月二日に金五二七万四五二六円の未収金(差損金)が生じたこと、被告の管理部は同月一一日に原告に対し右の二つの口座に係る差損金について回収を命じたが、原告には田中勝及び松本麻希と連絡を取ろうとした形跡は全くなく、また、原告は工藤部長が田中勝及び松本麻希名義の口座の委託者の所在を明らかにしようとしていることに協力するといった姿勢は全く見られなかったこと、被告はこのような原告の対応などにかんがみ、田中勝及び松本麻希名義の口座の未収金(差損金)の回収のめどが付くまでは本件奨励手当のうち原告に配分される予定であった金五六万円のうち金二八万円の支払を留保することにし、その旨を原告に伝えたことは、後記第三の三1(七)、(九)で認定するとおりであり、以上の事実によれば、被告が原告に配分された本件奨励手当のうち二分の一に相当する金二八万円を前記未収金(差損金)の回収のめどが付くまでという条件付で留保したことは当然のことというべきであり、被告が本件奨励手当のうち金二八万円を留保したことに何ら違法な点はない。

そして、現在に至るまで前記未収金(差損金)のうち少なくとも田中勝名義の口座に係る分については回収のめどが全く付いていないことは後記第三の三1で認定した事実から明らかであって、いまだ本件奨励手当のうち金二八万円の支給を留保した際に付けられた条件は成就していないというべきである。

(2) これに対し、

ア 原告は完全未収金の回収は被告の管理部の仕事であって外務員の仕事ではないから、完全未収金の回収を条件に四半期奨励手当の支払を留保することはできないと主張するが、完全未収金(差損金)の回収も外務員の仕事である(<人証略>)から、右の原告の主張は採用できない。

イ 原告は四半期奨励手当の配分方法が恣意的にして公序良俗に反すると主張するが、原告が右の主張において論難しているのは営業員が顧客から集めた委託証拠金から未収金(差損金)を差し引いた残額を基準にして四半期奨励手当の金額を算出する点であり、要するに、原告に配分された金五六万円という金額が低すぎることを論難しているにすぎないと考えられるところ、仮に右の論難が正しいとしても、そのことから被告が本件奨励手当の一部の支給を留保したことが違法であるということにはならないことは明らかである。右の原告の主張は失当というほかない。

ウ 原告は被告が田中勝及び松本麻希名義の口座について追証拠金の獲得を目的に強制手仕舞を遅らせたことにより右の二つの口座の差損金が拡大したと主張し、右の主張に沿う証拠(<証拠・人証略>、原告本人)もある。確かに右の二つの口座についてダブル追証が発生したのは平成七年三月六日であり、右の二つの口座について被告が強制手仕舞をしたのは同年一〇月二日である(後記第三の三1(六))が、被告がダブル追証が発生したにもかかわらずすぐに強制手仕舞しなかった経過は後記第三の三1で認定するとおりであり、要するに、田中勝及び松本麻希から強制手仕舞しないよう強硬に求められていたために強制手仕舞が遅れたというのであって、この経過からすれば、被告が田中勝及び松本麻希名義の口座について追証拠金の獲得を目的に強制手仕舞を遅らせていたことはおよそ認められないのであって、右の証拠はこの判断を左右するには足りない。

原告は被告が業界でも有名なノミ屋であり、客殺しの向かい玉を建てることもあり、強制手仕舞が遅れたのもそのためであると主張し、右の主張に沿う証拠(<証拠・人証略>、原告本人)があり、右の主張に沿うものとして原告が提出している証拠(<証拠略>)がある。しかし、右の主張に沿うものとして原告が提出している証拠に右の主張に沿う証拠を加えて併せ考えても、これらの証拠だけでは被告が強制手仕舞をすぐにしなかったのは向かい玉を建てていたためであることを認めるには足りないというべきであり、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

したがって、右の原告の主張はいずれも採用できない。

エ 原告は被告が奨励金の原資に外務員が顧客から集めた委託証拠金を充てていると主張し、右の主張に沿う証拠(<証拠・人証略>、原告本人)もあるが、右の証拠だけでは右の主張に係る事実を認めるには足りず、他に右の主張に係る事実を認めるに足りる証拠はない。そして、仮に右の主張に係る事実が認められたとしても、それだけでは被告が本件奨励手当の留保分である金二八万円を支払わないことが違法であるということはできない。

(3) したがって、被告には本件奨励手当の留保分として金二八万円の支払義務があることを認めることはできない。

(三) 以上によれば、原告の請求のうち本件奨励手当の留保分として金二八万円の支払を求める部分は理由がない。

3  本件新規賞の支払義務の有無

(一) 被告が社員個人に対して支給する新規賞は、新規に顧客を開拓した場合に支給されるものである(前記第三の一1(一))というのであるから、この奨励金はいわば被告の営業員が被告の業績に貢献したことに対して支給されるものであるというべきであり、そうであるとすると、被告がこの奨励金の支給に当たってどのように支給条件を定めることも本来自由であり、その支給条件が合理性を欠くものではない限りは、営業員はその支給条件に拘束されるものというべきである。そして、商品取引において仮名口座、借名口座が持つ危険性(前記第三の一1(三))に照らせば、ねつ造新規については新規賞を支給しないこととすることは許されるものというべきである。

そして、本件新規建て玉がねつ造新規であることは前記第二の二4、第三の一1(四)から明らかであるから、被告には本件新規賞として金一万五〇〇〇円の支払義務があることを認めることはできない。

これに対し、原告は被告では仮名口座、借名口座による取引が広く行われていると主張し、右の主張に沿う証拠(<証拠略>、原告本人)もあるが、仮に右の原告の主張が正しいとしても、商品取引において仮名口座、借名口座が持つ危険性(前記第三の一1(三))に照らせば、被告が仮名口座、借名口座による取引であることが判明した口座に係る新規取引について新規賞を支給しないという取扱いをしていることが平等、公平の原則などに反して違法であるということはできない。

(二) 以上によれば、原告の請求のうち本件新規賞として金一万五〇〇〇円の支払を求める部分は理由がない。

二  争点3(原告の主張に係る損害賠償の成否)について

1  前記第二の三3(一)(1)の原告の主張について

(一) 原告が被告の外務員として担当していた田中勝名義の口座について平成七年一〇月二日に金五一四万七〇三八円の差損金が生じたこと、同じく原告が被告の外務員として担当していた松本麻希名義の口座について平成七年一〇月二日に金五二七万四五二六円の差損金が生じたこと、被告の管理部は同月一一日に原告に対し右の二つの口座に係る差損金について回収を命じたが、原告には田中勝及び松本麻希と連絡を取ろうとした形跡は全くなかったこと、右の二つの口座はいずれも仮名口座であることが判明したが、原告は工藤部長が田中勝及び松本麻希名義の口座の委託者の所在を明らかにしようとしていることに協力するといった姿勢は全く見られなかったこと、被告はこのような原告の対応などにかんがみ、田中勝及び松本麻希名義の口座の差損金の回収のめどが付くまでは本件奨励手当のうち原告に配分される予定であった金五六万円のうち金二八万円の支払を留保することにし、その旨を原告に伝えたこと、被告の乙原に対する差損金請求事件において証人として出廷した原告はその事件で争点とされていた「乙原が平成四年一〇月二日に被告に仕切りをお願いしたかどうか」についてそのようなことがあったかもしれませんと証言したことは、後記第三の三1(七)、(九)及び(一〇)で認定するとおりである。

また、証拠(<証拠・人証略>)によれば、工藤部長は平成八年に原告が田中勝及び松本麻希名義以外にも原告が担当している顧客の中に仮名口座があるのではないかという疑いを抱いて調査したところ、原告の担当に係る口座のうち幾つかの口座が仮名口座であることが判明したことが認められる。

(二) 右(一)の事実によれば、被告が原告に対し田中勝及び松本麻希名義の口座について生じた差損金の回収を命ずることは当然のことというべきであって、被告が原告に対し右の差損金の回収を命じたことやその回収のめどが付くまで本件奨励手当の一部の支給を留保したことが原告に対する嫌がらせであるということはできない。

また、工藤部長が原告の担当に係る顧客の中に仮名口座があるのではないかという疑いを抱いて調査したことが原告に対する嫌がらせであるということはできないし、被告の乙原に対する差損金請求事件において証人として出廷した原告はその事件で争点とされていた「乙原が平成四年一〇月二日に被告に仕切りをお願いしたかどうか」についてそのようなことがあったかもしれませんと証言したことについて、原告に対し何らかの嫌がらせがされたことは原告の陳述書(<証拠略>)及び本人尋問における供述からはうかがわれない。

そして、原告の陳述書(<証拠略>)及び本人尋問の結果中には原告が被告から嫌がらせを受けたという供述がないではないが、右の供述だけではその供述に係る事実を認めるには足りず、他に右の供述に係る事実を認めるに足りる証拠はない。

(三) 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、前記第二の三3(一)(1)の原告の主張は採用できない。

2  前記第二の三3(一)(2)の原告の主張について

(一) 乙原の陳述書(<証拠略>)及び証言中、原告の陳述書(<証拠略>)及び本人尋問の結果中には、それぞれ前記第二の三3(一)(2)の原告の主張に係る事実について言及したと考えられる部分がないではないが、それだけは前記第二の三3(一)(2)の原告の主張に係る事実を認めるには足りず、他に前記第二の三3(一)(2)の原告の主張に係る事実を認めるに足りる証拠はない。

(二) 以上によれば、その余の点について判断するまでもなく、前記第二の三3(一)(2)の原告の主張は採用できない。

3  そうすると、その余の点について判断するまでもなく、原告の請求のうち損害賠償の支払を求める部分は理由がない。

三  争点4(被告の主張に係る損害賠償の成否)について

1  前記第二の二3の事実、次に掲げる争いのない事実、証拠(<証拠・人証略>、原告本人(ただし、次の認定に反する部分を除く。))によれば、次の事実が認められ、この認定に反する証拠(<証拠・人証略>、原告本人)は採用できず、他にこの認定に反する証拠はない。

(一) 被告は、乙原の委託により、平成元年四月四日から平成四年一一月九日までの間、東京工業品取引所、東京穀物商品取引所、旧東京砂糖取引所におけるゴム、綿糸、小豆、粗糖の先物取引を受託し、この売り付け、買い付けを行っていたが、このとき被告の外務員として乙原を担当したのは原告であった。乙原が東京穀物商品取引所において行っていた小豆の取引について差損金が発生し、乙原は平成四年一〇月に三回にわたり被告に念書を差し入れて建て玉を維持しようとしたが、乙原が入金を約束した追証拠金五四〇万円が入金できなかったため、同年一一月九日に被告によって強制手仕舞された。乙原は強制手仕舞によって被告に対し金五五三万六六九二円の差損金債務を負うことになり、右の差損金債務の弁済の目的で平成五年四月以降二か月から四か月の間隔で被告に対し一万円ずつを入金していた(乙原が平成元年四月四日から平成四年一一月九日までの間被告に先物取引を委託して被告が売り付け、買い付けを行っていたこと、その担当が原告であったことは争いがない。先物取引の内容については<証拠略>。強制手仕舞された経過については<証拠・人証略>)。

(二) 被告は、田中勝の委託により、平成六年一一月一一日から平成七年一〇月二日までの間、東京穀物商品取引所における粗糖の先物取引を受託し、別紙1「田中勝口座(東京穀物商品取引所)」記載のとおり粗糖の買い付けを行ったが、このとき被告の外務員として田中勝を担当したのは原告であった(<証拠略>)。

(三) 前記(二)で買い付けた粗糖の先物取引について平成七年三月三日追証拠金が発生し、同月六日ダブル追証となった。追証拠金とは、顧客が買い付けた先物取引に係る商品が値下がりしたことによる損失がその顧客が被告に支払っていた委託証拠金の半額に相当する金額に達した場合に、被告がその顧客に支払を求める追加の委託証拠金のことであり、ダブル追証となったというのは、顧客が買い付けた先物取引に係る商品が値下がりしたことによる損失がその顧客が被告に支払っていた委託証拠金の金額に相当する金額に達したということである。一般には追証拠金が発生した場合には、顧客から追証拠金を提出させることにし、顧客がこれに応じないときは強制手仕舞することとされていた。そこで、被告は同月八日田中勝からの三〇枚の買建の要請を拒否するとともに同月八日に被告に電話を架けてきた田中勝に対し追証拠金の入金を求めたが、これを拒否されたので、被告は原告に対し田中勝に追証拠金を入金させるため交渉するよう指示したが、原告の報告によれば、田中勝には前記(二)で買い付けた粗糖の建て玉を手仕舞するつもりはなく、かといって追証拠金の入金にも容易には応じない様子であった(<証拠・人証略>)。

(四) 乙原が田中勝を名乗って同年四月一七日被告に電話を架けてきて被告の松本部長に対し前記(二)で買い付けた粗糖の建て玉について被告において強制手仕舞しないよう強硬に申し入れてきた。もともと乙原は平成六年秋ころには粗糖相場は買いで報われるのではないかと考えていたのであり、乙原は平成七年三月に田中勝名義で買い付けた粗糖の建て玉についてダブル追証となった直後も、粗糖などの国際的先物取引に係る商品は一旦底値となれば上昇に転じる期待感があることから、前記(二)で買い付けた粗糖の建て玉を売らずに置いておけばいずれ値上がりに転じて値下がりによる差損を取り戻すことができると考えていたのであって、そこで、被告に強制手仕舞しないよう強硬に申し入れたのであった。被告では田中勝と名乗って電話を架けてきた者の声を聞いて電話を架けてきたのは乙原ではないかという疑いを抱いていたが、その確証はなく、原告も電話を架けてきた者が乙原であることを否定していた(<証拠・人証略>)。

(五) 丙山は乙原に誘われて松本麻希の名義で東京穀物商品取引所における粗糖の先物取引を始めることにし、乙原は丙山に原告を紹介し、原告は被告の外務員として丙山を担当することになり、丙山は原告に金一〇〇万円を預けた。丙山は乙原に対しては関元摩椰と名乗っており、乙原は原告に対し丙山を関元摩椰と紹介した。被告は平成七年一月一一日から同年一〇月二日までの間、別紙2「松本麻希口座(東京穀物商品取引所)」記載のとおり粗糖の買い付けを行ったが、松本麻希こと関元摩椰(丙山)は原告から追加の入金を求められ、同月二〇日付けで金五〇万円、同年二月一五日付け及び同月二〇日付けで合計金一五〇万円を入金したが、そのうち金一〇〇万円は乙原が用意したものであった。原告が松本麻希こと関元摩椰(丙山)に追加の入金を求めたときには松本麻希こと関元摩椰(丙山)は同年一月二三日ころに遭った交通事故によるけがの治療のため病院に入院しており、原告は病室に赴いて松本麻希こと関元摩椰(丙山)に対し追加の入金を求めていたが、松本麻希こと関元摩椰(丙山)が入院していた病室には松本麻希の本名である丙山花子という名札が掛かっており、これにより原告は関元摩椰の本名が丙山花子であることを知った(<証拠・人証略>、原告本人)。

(六) 前記(五)で買い付けた粗糖の先物取引について平成七年三月三日追証拠金が発生し、同月六日ダブル追証となった。原告は被告に命じられて松本麻希こと関元摩椰(丙山)に念書を差し入れさせるために同月八日松本麻希こと関元摩椰(丙山)が入院している病院を訪ね、松本麻希こと関元摩椰(丙山)に念書を作成させ、同人からこれを受け取ったが、この念書には「私、松本麻希は東京穀物取引所における粗糖の先物取引において三〇枚の建て玉がありますが、三月八日現在追証四五〇万円かかっています。現在入院中のため、三月一三日に必ず入金致しますので、その間、建て玉を維持して頂きたく思います。なお、三月一三日現在に今より多くの追証がかかっていた時は、その必要金額を入金します。入金なき場合は翌日に建て玉を処分しそれによって出た損金は、私の責任をもってお支払い致します。」と書かれていた。ところが、同月一〇日付けの内容証明郵便が同月一三日ころ被告に配達されたが、その内容証明郵便には「前回に於いては医師の反対の元、重要な事情という事で無理に外出許可をとり指図どう(ママ)りに送金しましたがその後病状が悪化してしまい、頻繁に電話で請求されたり病院に度々来て頂いても非常に迷惑な状態となっております。私の建て玉については最終的に自己の責任になるのは承知しております。従って退院するまでは電話による問い合わせ及び病院に来られる事は差控えて下さい。尚、前日念書として書いたものは強引な手法で強制的に書かされたものであり、無効として頂きます。私の了解なく貴社が勝手に処分した建て玉は一切の責任を負いかねます。退院の際には担当者に必らず連絡致しますのでそれまで回復の為協力下さい。」と書かれており、差出人は松本麻希であった。この内容証明郵便を作成したのは丙山であるが、丙山は乙原からこの内容証明郵便を被告あてに送るよう指示されたので、言われるがままにこの内容証明郵便を被告あてに送付した。また、同年八月一一日に投函された原告あての暑中見舞いはがきが被告に配達されたが、この葉書には「祖(ママ)糖相場に関しては難しい事を考えたり神経を使うことは、リハビリに影響しますのであまり考えないようにしております。しかし相場をしかけたのは私ですから当然私の責任において処理致します(すなわち仕切は私が指示します)」と書かれており、差出人は松本麻希であった。この葉書を作成したのは丙山であるが、丙山は乙原から転院の連絡を兼ねて送るよう指示されたので、言われるがままにこの葉書を被告あてに送付した(<証拠・人証略>、原告本人)。

(七) 被告は田中勝及び松本麻希名義の口座で買い付けた粗糖の建て玉について同口座の委託者とされる者から強制手仕舞しないよう強硬に求められていたので、右の二つの口座にダブル追証が発生した後に追証拠金の支払がないにもかかわらず強制手仕舞しなかった。しかし、田中勝及び松本麻希名義の口座で買い付けた粗糖は同年三月にダブル追証が発生した後も値を下げ続け、同年七月には最安値を付け、右の二つの口座で買い付けた建て玉を仕切る(売買する)となると、相当額の差損金が発生することが予想された。そこで、松本部長は同年八月二八日田中勝及び松本麻希名義の口座の調査及び処理を工藤部長に委ねることにした。調査と処理を委ねられた工藤部長は既に同年三、四月ころには田中勝及び松本麻希名義の口座の担当を外されていた原告に対し松本麻希と田中勝の連絡先について尋ねたところ、原告は松本麻希の携帯電話の番号については忘れてしまったと答え、田中勝の携帯電話の番号についてはメモを探すと言っていたが、後日工藤部長がこれを確認すると、原告はなくしたと答えた。そこで、工藤部長は強制手仕舞のための手続に着手した方がよいと判断して配達証明付郵便により田中勝及び松本麻希に対し同年九月二九日までに追証を入金するよう請求するとともに同日までに追証の入金がなければ同年一〇月二日をもって既存建て玉を処分することを通知したが、田中勝も松本麻希もこの配達証明付郵便を受け取ろうとはせず、その後何度か郵便を送付したが、いずれも田中勝も松本麻希も受け取ろうとはしなかった。被告は同年一〇月二日をもって田中勝及び松本麻希名義の建て玉を強制手仕舞としたが、田中勝名義の口座について生じた取引損金は金八一四万七〇三八円であり、委託証拠金は金三〇〇万円であるから、差損金は金五一四万七〇三八円となり、松本麻希名義の口座について生じた取引損金は金八二七万四五二六円であり、委託証拠金は金三〇〇万円であるから、差損金は金五二七万四五二六円となった(<証拠・人証略>、原告本人)。

(八) 工藤部長が強制手仕舞した後に田中勝及び松本麻希名義の口座を調査したところ、松本麻希名義の口座については松本麻希名義の約諾書及び顧客カード記載の住所に住んでいた丙山が松本麻希であることが判明し、その後転居した丙山の居所を把握した被告は平成八年松本麻希こと丙山を被告として差損金として金五二七万四五二六円及びこれに対する平成八年一〇月九日から支払済みまで年六分の割合による遅延損害金の支払を求める訴えを東京地方裁判所に提起し、同裁判所は同年一一月六日丙山に金五二七万四五二六円及びこれに対する平成八年一〇月九日から支払済みまで年六分の割合による金員の支払を命ずる判決を言い渡した。丙山は平成九年五月二日下飯坂法律事務所において丙山が松本麻希名義で先物取引を始めた経緯やその後の経過について被告に説明し、被告と丙山は同月二八日右の差損金の二分の一に相当する金二六三万七二六三円を支払うことで和解した。これに対し、田中勝名義の口座については、田中勝の約諾書及び顧客カードなどに記載された同人の住所には田中勝なる人物は居住しておらず、田中勝なる人物の所在は全く分からなかった(<証拠・人証略>)。

(九) 管理部は同年一〇月一一日に原告に対し田中勝及び松本麻希名義の口座に係る前記(七)の差損金について回収を命じたが、原告は「訪問できず連絡取れず」「訪問せず連絡取れず」「訪問出来ず連絡つかず」などといった報告書を提出するのみで一向に回収に着手しようとしなかったのであり、このように原告には田中勝及び松本麻希と連絡を取ろうとした形跡は全くなかった。そこで、工藤部長は前記(七)の差損金の回収を原告には任せておけないと判断して前記(八)のとおり調査を開始し、その調査の過程で田中勝及び松本麻希名義の口座はいずれも仮名口座であることが判明したが、原告には工藤部長が田中勝及び松本麻希名義の口座の委託者の所在を明らかにしようとしていることに協力するといった姿勢は全く見られなかった。例えば、松本麻希が関元摩椰と名乗っていたことについては原告が再三問われてようやく明らかにしたことであり、その関元摩椰が丙山であることについては工藤部長の調査の結果を突き付けられて同年一一月に至ってようやく認めたことであった。また、原告は田中勝は実在するが、その所在については分からないなどと答えていた。被告は、このような原告の対応などにかんがみ、田中勝及び松本麻希名義の口座の差損金の回収のめどが付くまでは平成七年度第三四半期奨励手当のうち原告に配分される予定であった本件奨励手当(金五六万円)のうち金二八万円の支払を留保することにし、その旨を原告に伝えた。被告が原告に交付した本件書面に記載された完全未収金額一〇四二万一五六四円は田中勝及び松本麻希名義の口座に発生した前記(七)の差損金の合計額を指している(<証拠・人証略>)。

(一〇) 被告は平成七年に乙原を債務者として前記(一)の差損金の支払を求める支払命令を東京簡易裁判所に申し立て、同裁判所は同年一一月二二日被告の申立てを認める支払命令を発したところ、乙原が異議を申し立てたため、通常訴訟に移行し、東京地方裁判所がこれを審理することになった。原告は平成八年二月六日乙原に呼び出されて同人と面談したが、そのことを被告には秘し、乙原が原告との面談の内容を録音したテープの反訳書を提出して初めて被告は原告と乙原との面談の事実を知った。原告は同年六月二六日に行われた差損金請求事件の第五回口頭弁論期日に証人として出廷し、同事件で争点とされていた「乙原が平成四年一〇月二日に被告に仕切りをお願いしたかどうか」についてそのようなことがあったかもしれませんと証言した。被告は同年一〇月三〇日乙原と和解した(<証拠・人証略>)。

(一一) 乙原は田中勝名義のファックスを作成してこれを同年三月二八日と同年五月三〇日の二回にわたり被告あてに送信した。これらのファックスには田中勝名義で買い付けた建て玉の仕切り(売り付け)に関する指示が書かれていた。このファックスを被告あてに送ったのは乙原であった(<証拠・人証略>)。

2  右1で認定した事実を前提に、田中勝及び松本麻希名義の口座の名義人の真実の氏名、原告がこれを被告に告げなかったことによって生ずる被告の損害の有無について検討する。

(一) 田中勝名義の口座について

(1) 田中勝名義の口座の名義人の真実の氏名について

乙原は田中勝と名乗って平成七年四月一七日に被告に電話を架けて田中勝名義で買い付けた粗糖の建て玉を強制手仕舞しないよう申し入れていること(前記第三の三1(四))、乙原は平成八年三月と同年五月に田中勝名義のファックスを作成して田中勝名義で買い付けた粗糖の仕切りを指示していること(前記第三の三1(二))、もともと乙原は平成六年秋ころには粗糖相場は買いで報われるのではないかと考えていたのであり、平成七年三月に田中勝及び松本麻希名義で買い付けた粗糖の建て玉についてダブル追証となった直後にも右の建て玉を売らずに置いておけばいずれ値上がりに転じて値下がりによる差損を取り戻すことが出来ると考えていたこと(前記第三の三1(四))、原告は管理部から田中勝及び松本麻希名義の口座に係る差損金の回収を命じられたが、原告には田中勝及び松本麻希と連絡を取ろうとした形跡は全くなく、また、工藤部長による調査の過程で田中勝及び松本麻希名義の口座はいずれも仮名口座であることが判明したにもかかわらず、原告には工藤部長が田中勝及び松本麻希名義の口座の委託者の所在を明らかにしようとしていることに協力するといった姿勢は全く見られなかった(前記第三の三1(九))のであって、これらの原告の対応からすれば、原告は田中勝や松本麻希が誰であるかが明らかになることに消極的であったというべきであること、しかも、管理部の調査によって松本麻希名義の約諾書及び顧客カード記載の住所に住んでいた丙山が松本麻希であることが判明したのに対し、田中勝の約諾書及び顧客カードなどに記載された同人の住所には田中勝なる人物は居住しておらず、田中勝なる人物の所在は全く分からなかったこと(前記第三の三1(八))からすると、松本麻希名義の口座の開設を委託した丙山は右口座の開設を委託したのが自分であることが後日判明する手掛かりを残しておいたといえるのに、田中勝名義の口座の開設を委託したのが誰であるかを明らかにする手掛かりは全く残されていなかったというべきであり、そうすると、田中勝名義の口座については委託者が誰であるかを明らかにしたくなかった事情があったものと考えられること、乙原は平成四年一一月九日に被告が強制手仕舞したことによって被告に対し金五五三万六六九二円の差損金債務を負うことになった(前記題の(ママ)三の三1(一))というのであるから、乙原が被告を通じて新たな先物取引を行おうとしても、右の差損金債務の清算をまず求められることが予想されたのであって、乙原が被告を通じて新たな先物取引を行おうとしても、乙原は実名を使って先物取引を委託することはできなかったものと考えられること、乙原の陳述書(<証拠略>)及び証人尋問における田中勝に関する供述ないし証言の内容、(人証略)の陳述書(<証拠略>)における供述、原告の陳述書(<証拠略>)及び本人尋問における田中勝に関する供述の内容は、いずれもその証言ないし供述に係る田中勝が実在する可能性があると認められるほどの具体性には乏しいのであって、そうであるとすると、乙原の知人でその実名を明らかにしたくない第三者が乙原を介して被告を通じて先物取引を委託しようとしていた可能性は考え難いというべきであること、以上の点を総合すれば、田中勝名義の口座の真実の名義人は乙原であったものと認められる。

(2) 原告が田中勝名義の口座の真実の名義人が乙原であることを被告に告げなかったことによって生ずる被告の損害について

原告が田中勝名義の口座の開設に当たったこと(前記第三の三1(二))からすれば、原告は乙原が田中勝名義で被告を通じて先物取引をしようとしていることを知っていたことは明らかであり、それにもかかわらず、原告は被告に対し田中勝なる人物の氏素性を明らかにしなかったのである。そして、田中勝の約諾書及び顧客カードなどに記載された同人の住所には田中勝なる人物は居住しておらず、田中勝なる人物の所在は全く分からなかった(前記第三の三1(八))というのであるから、原告が田中勝は乙原であることを明らかにしない限りは、被告は田中勝名義の口座に生じた差損金を乙原から回収することができず、被告は右の差損金と同額の損害を被ることになるのであって、そうすると、原告は、田中勝が乙原であることを明らかにしないことによって被告による右の差損金の回収の途が完全に閉ざされ、その結果いずれ被告が差損金と同額の損害を被ることになることを予見していたものと認められる。

(二) 松本麻希名義の口座について

(1) 松本麻希名義の口座の(ママ)について

松本麻希名義の口座の名義人の真実の氏名が丙山であることは前記認定のとおりである。

(2) 原告が本(ママ)麻希名義の口座の名義人の真実の氏名を被告に告げなかったことによって生ずる被告の損害について

原告が松本麻希名義の口座の開設に当たったこと(前記第三の三1(五))からすれば、原告は丙山が松本麻希名義で被告を通じて先物取引をしようとしていることを知っていたことは明らかであり、それにもかかわらず、原告は被告に対し松本麻希なる人物の氏素性をすぐには明らかにしようとはしなかったのである。しかし、松本麻希の約諾書及び顧客カードに記載された同人の住所には松本麻希が居住していたのであって、その結果、松本麻希の所在を把握できた(前記第三の一1(八))というのであるから、原告が松本麻希は丙山であることを明らかにしなくとも、被告は松本麻希名義の口座に生じた差損金を回収する機会が得られたのであって、現に被告は管理部の調査によって松本麻希が丙山であること及び丙山の所在を把握していたのである。そして、原告も松本麻希が丙山であることは認めた(前記第三の三1(九))というのであり、その後被告は丙山に対して差損金請求訴訟を提起して、全部認容の勝訴判決を得た後に丙山と和解して右の差損金の二分の一に相当する金員を回収しているのである(前記第三の三1(八))。そうすると、原告が、松本麻希は丙山であることを明らかにしないことによって被告による右の差損金の回収の途が完全に閉ざされたということはできないのであって、したがって、被告は原告が松本麻希は丙山であることを明らかにしないことによって右の差損金と差損金と同額の損害を被ることになったということはできない。原告が松本麻希は丙山であることを明らかにしないことによって被告による差損金の回収に余分な費用を要したというのであれば、それは原告が松本麻希は丙山であることを明らかにしないことによって被った損害ということはできるが、原告が松本麻希は丙山であることを明らかにしないことによって被告による右の差損金の回収の途が完全に閉ざされたということはできない以上、差損金と同額の損害を被ったということはできない。

3  原告の責任について

(一) 前記第三の三1で認定した事実、第三の三2で認定、説示したことに照らせば、原告、丙山及び乙原が共謀して差損金が発生した場合にはこれを免れる目的などで松本麻希名義の口座を開設したこと、原告及び乙原が共謀して差損金が発生した場合にはこれを免れる目的などで田中勝名義の口座を開設したこと、原告が手張り行為として田中勝名義の口座を使用したことについてはいずれも認めることはできず、他にこれらについて不法行為の成立を認めるに足りる証拠はない。

(二) しかし、およそ商品取引員たる会社と外務員との間の雇用契約の趣旨からして、外務員は、自己の担当した顧客に関しては、委託追証拠金預託事由発生の通知、差損金債権の回収などの業務上の必要性にかんがみ、会社に対し、顧客の真実の氏名、住所などを告知すべき義務があるものというべきであるにもかかわらず、原告は、被告の外務員である(ママ)ながら、自己の担当する顧客である田中勝名義の口座の名義人の真実の氏名、住所などを被告に告知しなかったこと、被告がこれによって右の口座に発生した差損金相当額の損害を被ったこと、原告が右の口座の名義人の真実の氏名、住所などを被告に告知しないことによって被告が右の口座に発生した差損金と同額の損害を被ることになることを予見していたことは、前記第三の三2で認定、説示したとおりであるから、原告は被告に対し被告が田中勝名義の口座について被った差損金に相当する金五一四万七〇三八円について不法行為又は債務不履行に基づく損害賠償責任を負うものといわなければならない。

しかし、原告は松本麻希名義の口座の名義人の真実の氏名、住所などを被告に告知しなかったが、被告がこれによって右の口座に発生した差損金相当額の損害を被ったということができないことは、前記第三の三2で認定、説示したとおりであるから、原告は被告に対し被告が松本麻希名義の口座について被った差損金に相当する金五二七万四五二六円について不法行為又は債務不履行に基づく損害賠償責任を負うということはできない。

(三) 本件補足規定八条には「社員が故意又は重大なる過失によって担当の委託者口座に完全未収金を出した場合は身元保証人と連帯して速やかに(一ケ月以内)弁済を完了すること」を規定している(前記第二の二5(四))が、原告は平成七年三、四月ころには田中勝及び松本麻希名義の口座の担当から外されていたのである(前記第三の三1(七))から、原告が担当を外された時点における未収金(差損金)については本件補足規定八条によって支払義務を負う余地がないではないが、原告が担当を外された後に右の二つの口座について発生した未収金(差損金)のすべてについて本件補足規定八条によって支払義務を負う余地はないものと考えられるから、原告は被告に対し被告が田中勝名義の口座について被った差損金五一四万七〇三八円及び松本麻希名義の口座について被った差損金五二七万四五二六円について本件補足規定八条に基づく弁済責任を負っているということはできない。そして、本件全証拠に照らしても、原告が担当を外されていた時点で幾らの未収金(差損金)が発生していたかについては不明であるから、右の時点での未収金(差損金)の発生が原告の故意又は重大な過失によるかどうかについて判断するまでもなく、原告が担当を外されていた時点における未収金(差損金)の限度で原告は被告に対し弁済責任を負っているということもできない。

(四) なお、遅延損害金の起算日は、不法行為に基づく損害賠償責任については不法行為の日の後であることが明らかな平成一〇年一月三〇日であるが、債務不履行責任については右の責任に係る債務は期限の定めのない債務であるから、請求の日である平成一〇年五月二九日の翌日である同月三〇日ということになる。

(五) 以上によれば、被告の請求は被告が田中勝名義の口座について被った差損金に相当する金五一四万七〇三八円及びこれに対する不法行為の日の後であることが明らかな平成一〇年一月三〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。

四  結論

以上によれば、原告の請求はいずれも理由がなく、被告の請求は原告に対し金五一四万七〇三八円及びこれに対する平成一〇年一月三〇日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由がある。

(裁判官 鈴木正紀)

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